Gabriela Bermeo Castrejon & Chak Ceel Rah Blancas
「色と光と水の建築家:ルイス・バラガンについて」
日時:2015年10月6日(火)18時30分~
会場:東京藝術大学上野キャンパス 総合工房棟4階 FM
メキシコの建築家Gabriela Bermeo Castrejon(ガブリエラ・ベルメオ・キャストリジョン)とChakceel Rah Blancas(チャック・セル・ラ・ブランカス)による特別レクチャーを開催。メキシコ近代建築を代表する建築家ルイス・バラガンの「自邸」の保存・広報に携わっている身から、バラガン建築の特徴や魅力が語られた。
以下、学生によるレクチャーレポート。
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ガブリエラ・ベルメオ・キャストリジョン(Gabriela Bermeo Castrejon)とチャック・セル・ラ・ブランカス(Chak Ceel Rah Blancas)は、ルイス・バラガンの「自邸」(1948年)の保存活動や広報などを手がけるディレクター兼建築家だ。今回実現した彼らのレクチャーでは、バラガンの建築家としての特徴、そして彼がメキシコ・シティに建てた「自邸」の魅力が語られた。
バラガンは、建築家であると同時に、工芸家であり、アーティストであり、実業家である。世界を旅し、モダニズムに感化されながら、他方では伝統に魅せられ、絵画を愛した。こうした似て非なるさまざまな領域を股にかけ、それらを母国で一個の作品として結実させたのが「自邸」であった。
レクチャーで最初に語られたのは、バラガンの旅についてである。1925年から1927年にかけて、バラガンはスペイン、フランス、モロッコを旅している。スペインで触れた教会の光、モロッコの寺院で赤々と焚かれた炎。旅で出会った力強い光は、それぞれの場所の自然環境に根ざす「文化」そのものであった。そして2人のレクチャラーが「メキシコの光を特別な光だ」と指摘するように、バラガンの母国メキシコにも特徴的な光は存在する。バラガンは建築を作るとき、その光に対応した。彼は、赤道付近に位置づくメキシコの太陽にピタリと狙いを定め、その光線に映えるように建物を黄色やピンクで彩った。だから、彼の建築をメキシコの外に移築しても、その魅力は半減してしまうだろう。
「自邸」では、アートが建築の一部のように存在する。たとえば、マティアス・ゲーリッツによる黄金色に輝く絵画が、ある特定の時間になると、太陽光を反射して、部屋全体を金色に染め上げてしまう。あるいは、室内の至るところに置かれた鏡面仕上げの球体は、自分がいま見つめている視野の外にある次の空間を予感させる。これらのアートピースすべてが、バラガンの空間演出にきちんと参加しているのである。強烈な太陽光によって陰影に富むこの住宅は、ジョルジョ・デ・キリコが描いた、強い日差しに照らされて黒い影を刻む構築物にどこか似ている。バラガンは、陰影によって時間を描こうとしたキリコに魅せられ、建築で絵画的世界を表現しようとしたのではないかと、チャックとガブリエラは指摘する。
ところで、バラガンは母国メキシコのなかで建築を建てることにこだわった。実際、彼の作品はメキシコにしかない。日本人が建築を作るとき、常にその脳裏には日本の家並みが忍びこむように、バラガンの脳裏にもいつも、母国の極彩色の風景があったはずだ。伝統工芸品にしろ町並みを形づくる家々にしろ、メキシコで作られるものは、どれも鮮やかな色で彩られている。市場にならぶ野菜でさえ、メキシコでは一層鮮やかに見える。つまり、「自邸」に限らず、バラガンの建築はどれも眩しい色彩で塗られているが、外国人からしてみたら突飛な意匠に思えても、彼自身にとってはきわめて身近で当たり前のものなのだ。また、バラガンはモロッコの山間部にある町並みを愛したという。そこでは建物が鮮やかな青に染め上げられており、そのことが町の人々を笑顔にしていると考えたというのだ。母国の外で出会った風景から、バラガンは色彩を意識的に使うようになったのかもしれない。
アートと色彩をきっかけにバラガンを切り取るチャックとガブリエラのレクチャーが終わったあと、ひとつ質問をしてみた。日本の建築家は白色や灰色を好み、南米の街々にあるような鮮やかな色彩は一般的に好まない。そもそも伝統的な町並みからしてそのような色彩であり、天気も、南米のようには常にカラッとしているわけではない。そんな日本の「色」を、どう思ったのか、と。彼らはこう答えた。「暗闇のなかに浮かび上がるような色彩が日本にはあると思う。日本ならば、日本の風土に合わせた色彩で、建築を作るべきだろうね」。
バラガンは風土との調和を目指すうえで、失敗や実験を重ねたそうだ。そのプロセスのなかで、環境との調和の手法を必ずしも理論的には語っていない。そのためにバラガンは「感情の建築家」と呼ばれたりもするのだが、しかし一方では、彼は実業家でもあった。デベロッパーの仕事もいくつもした。感情の赴くままに「自邸」を創作できたのは、そうした実業的な仕事があったからなのだ。建築家がアーティストのように「建築家然」とするだけでなく、戦略的な態度でも建築に取り組むこと。いまの日本ではバラガンからそのような考えを学ぶべきかもしれない。
見富夏樹+湊崎由香(建築科2年)
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「色と光と水の建築家:ルイス・バラガンについて」
日時:2015年10月6日(火)18時30分~
会場:東京藝術大学上野キャンパス 総合工房棟4階 FM
メキシコの建築家Gabriela Bermeo Castrejon(ガブリエラ・ベルメオ・キャストリジョン)とChakceel Rah Blancas(チャック・セル・ラ・ブランカス)による特別レクチャーを開催。メキシコ近代建築を代表する建築家ルイス・バラガンの「自邸」の保存・広報に携わっている身から、バラガン建築の特徴や魅力が語られた。
以下、学生によるレクチャーレポート。
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ガブリエラ・ベルメオ・キャストリジョン(Gabriela Bermeo Castrejon)とチャック・セル・ラ・ブランカス(Chak Ceel Rah Blancas)は、ルイス・バラガンの「自邸」(1948年)の保存活動や広報などを手がけるディレクター兼建築家だ。今回実現した彼らのレクチャーでは、バラガンの建築家としての特徴、そして彼がメキシコ・シティに建てた「自邸」の魅力が語られた。
バラガンは、建築家であると同時に、工芸家であり、アーティストであり、実業家である。世界を旅し、モダニズムに感化されながら、他方では伝統に魅せられ、絵画を愛した。こうした似て非なるさまざまな領域を股にかけ、それらを母国で一個の作品として結実させたのが「自邸」であった。
レクチャーで最初に語られたのは、バラガンの旅についてである。1925年から1927年にかけて、バラガンはスペイン、フランス、モロッコを旅している。スペインで触れた教会の光、モロッコの寺院で赤々と焚かれた炎。旅で出会った力強い光は、それぞれの場所の自然環境に根ざす「文化」そのものであった。そして2人のレクチャラーが「メキシコの光を特別な光だ」と指摘するように、バラガンの母国メキシコにも特徴的な光は存在する。バラガンは建築を作るとき、その光に対応した。彼は、赤道付近に位置づくメキシコの太陽にピタリと狙いを定め、その光線に映えるように建物を黄色やピンクで彩った。だから、彼の建築をメキシコの外に移築しても、その魅力は半減してしまうだろう。
「自邸」では、アートが建築の一部のように存在する。たとえば、マティアス・ゲーリッツによる黄金色に輝く絵画が、ある特定の時間になると、太陽光を反射して、部屋全体を金色に染め上げてしまう。あるいは、室内の至るところに置かれた鏡面仕上げの球体は、自分がいま見つめている視野の外にある次の空間を予感させる。これらのアートピースすべてが、バラガンの空間演出にきちんと参加しているのである。強烈な太陽光によって陰影に富むこの住宅は、ジョルジョ・デ・キリコが描いた、強い日差しに照らされて黒い影を刻む構築物にどこか似ている。バラガンは、陰影によって時間を描こうとしたキリコに魅せられ、建築で絵画的世界を表現しようとしたのではないかと、チャックとガブリエラは指摘する。
ところで、バラガンは母国メキシコのなかで建築を建てることにこだわった。実際、彼の作品はメキシコにしかない。日本人が建築を作るとき、常にその脳裏には日本の家並みが忍びこむように、バラガンの脳裏にもいつも、母国の極彩色の風景があったはずだ。伝統工芸品にしろ町並みを形づくる家々にしろ、メキシコで作られるものは、どれも鮮やかな色で彩られている。市場にならぶ野菜でさえ、メキシコでは一層鮮やかに見える。つまり、「自邸」に限らず、バラガンの建築はどれも眩しい色彩で塗られているが、外国人からしてみたら突飛な意匠に思えても、彼自身にとってはきわめて身近で当たり前のものなのだ。また、バラガンはモロッコの山間部にある町並みを愛したという。そこでは建物が鮮やかな青に染め上げられており、そのことが町の人々を笑顔にしていると考えたというのだ。母国の外で出会った風景から、バラガンは色彩を意識的に使うようになったのかもしれない。
アートと色彩をきっかけにバラガンを切り取るチャックとガブリエラのレクチャーが終わったあと、ひとつ質問をしてみた。日本の建築家は白色や灰色を好み、南米の街々にあるような鮮やかな色彩は一般的に好まない。そもそも伝統的な町並みからしてそのような色彩であり、天気も、南米のようには常にカラッとしているわけではない。そんな日本の「色」を、どう思ったのか、と。彼らはこう答えた。「暗闇のなかに浮かび上がるような色彩が日本にはあると思う。日本ならば、日本の風土に合わせた色彩で、建築を作るべきだろうね」。
バラガンは風土との調和を目指すうえで、失敗や実験を重ねたそうだ。そのプロセスのなかで、環境との調和の手法を必ずしも理論的には語っていない。そのためにバラガンは「感情の建築家」と呼ばれたりもするのだが、しかし一方では、彼は実業家でもあった。デベロッパーの仕事もいくつもした。感情の赴くままに「自邸」を創作できたのは、そうした実業的な仕事があったからなのだ。建築家がアーティストのように「建築家然」とするだけでなく、戦略的な態度でも建築に取り組むこと。いまの日本ではバラガンからそのような考えを学ぶべきかもしれない。
見富夏樹+湊崎由香(建築科2年)
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